日本の京探訪科

2021/3/19

担当4班 彦坂さん

平安京

日本の京探訪科最後の探訪でした。

平安京は、当時の山背国葛野愛宕両郡にまたがる地(現在の京都市街となった地)に建設され、東西4.5km、南北5.2km長方形に区画された都城であった。

平安京の計画の大枠(平面計画)は基本的に(当時の、アジアの圧倒的な大国、先進国であったの)長安城を手本としたものであり、また長安を模した日本の平城京を踏襲したものでもあり、条坊制を採用しており、都市全体が四角形で、左右対称で、街路が「碁盤の目」状に整然と直交するように設けられ、政治の中心となる場所も左右対称の中心に置かれるものであり、平安京の場合は、市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置し、政治の中心となる大内裏は朱雀大路の北の端で都の北端に設けられ、朱雀大路の左右は左京右京と呼ぶことに決められた。手本となった長安城のほうは羅城(=都市を囲む城壁)で囲まれていたのに対して、日本の平安京では羅城門の左右を除き羅城は造られることはなかったと考えられている(その結果、城塞都市とはいくらか異なった、都市と周辺域との関係性ができた。これは世界的に見ると、一都市としての平安京の特徴のひとつである)。

この地の選定は中国から伝わった陰陽道風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。この四神とは北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀の霊獣をいうが、これを「山」「川」「道」「澤」に当てはめ、それぞれ船岡山、鴨川、山陰道、巨椋池に擬する考えがある。 平安京の範囲は、現代の京都市街より小さく、 道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった。また、堀川小路と西堀川小路では中央に川(堀川、西堀川)が流れていた。

桓武天皇は延暦3年(784)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれからわずか9年後の延暦12年(7931月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する。場所は、長岡京の北東10km2つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、都に相応しいか否か確かめたと云われている。「葛野の地はや川が麗しく四方のが集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

古来、都の名はその地名を冠することが一般的であり、本来ならば葛野京となるはずであったが、藤原の都を「新益京(あらますのみやこ)」と称したように、ここでも「平安京」と命名された。長岡京での騒動が原因のひとつとして、再び遷都されたため、新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」であって欲しいという願いも込められたと考えられている。


東寺・西寺

JR京都駅が改装されてからは残念なことに見えなくなってしまいましたが、以前は新幹線で京都駅に着く前に、南の方角にそのバランスが見事なまでに美しい五重塔が見え、その瞬間に京都にやって来たことを実感することができたものです。東寺の五重塔はまさに京都のシンボルなのです。

ところで、東寺があるなら、西寺(さいじ)もあるのでは?と思われたことはありませんか? 実は、今はその姿を見ることはできませんが、かつての京都には西寺もあったのです。 

 

西寺(さいじ)は、桓武天皇による平安遷都後の796年(延暦15年)、東寺とともに平安京の南の玄関口にあたる羅城門を挟んで左右対称に配置され、東西を守る王城鎮護の官寺として創建されました。

左右対称に建てられた東寺と西寺はほぼ同規模で、それぞれ東西に約250メートル、南北に約510メートルもある広大なものでした。東寺にある五重塔と同様に、西寺にも五重塔があって、その2つの五重塔は、まるで平安京の門柱のようにそびえ立っていました。

“国家・王城鎮護”を目的として創建された東寺と西寺は、ともに820(弘仁11)年頃までには完成し、西寺にも、東寺と同じように、南から南大門、中門、金堂、講堂、食堂の順に伽藍が並び、金堂や講堂の周りには僧坊が置かれてました。

823(弘仁14)年に嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏(しゅびん)に委ねました。東寺は真言密教の根本道場として発展するのに対して、西寺には、全国の寺院や僧尼を統括する施設「僧綱所(そうごうしょ)」が置かれ、天皇の国忌を行う官寺として発展しました。こういう点からすると、もしかすると当初は東寺より西寺の方が上だったのかもしれません。

西寺が衰退してしまった理由とは

空海と守敏はともに真言宗の僧であったことから、ライバル意識が強く、何かと事あるごとに対立していたと言われています。

824(天長1)年、雨が降らず、干ばつ続きで困っていた朝廷は、2人に雨乞い対決をさせることにしました。

守敏は西寺の金堂に籠もり、三日三晩、寝ずの祈祷を行いましたが、雨は一粒も降ってきませんでした。ところが、空海が神泉苑(しんせんえん:現二条城の南に位置する真言宗の寺院)の竜神の池にある祠で祈祷をし出すと、にわかに空は厚い雲に覆われ、夜の如く暗くなって、激しい雨が降り始めたのです。そして、池の中から金色の龍、善女竜王(ぜんにょりゅうおう)が現れたのでした。この結果、当然のことながら、朝廷の守敏への信頼は失墜することとなったのです。西寺はその後、990(正暦1)年に起きた落雷による火災によって、焼失。再建はされたものの、次第に荒廃し、鎌倉時代の1233(天福1)年に五重塔が焼け、西寺は廃絶し、以後再興されることはなかったのです。


五重塔跡

西寺5重の塔跡は確認されてますが、今は埋戻されている


西寺の主要伽藍の遺跡は、現在の唐橋小学校と西寺児童公園の下にあって、公園の中央には講堂跡が土塁として残されている。 (昭和34)年から行われた発掘調査で判明した講堂跡には「史跡西寺址」の石碑が、そして、金堂跡には疎石が3つ、ひっそりと置かれています。
さいじ

西寺跡礎石

2西寺跡

西寺集合

西寺跡4

西寺跡3



羅城門跡
羅城門あと

羅城門は、古代日本都城の正門。朱雀大路の南端に位置し、北端の朱雀門と相対する。

羅城門の遺構は、現在までに確認には至っていない。現在羅城門跡付近に残る「唐橋」の地名は、羅城門前の溝に架けられた橋に因むとされる。なお、東寺蔵の木造兜跋毘沙門天立像(国宝)や三彩釉鬼瓦(国の重要文化財)は、元は平安京羅城門にあったものと伝えられる



東寺

東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。本尊は薬師如来。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934昭和9年)に国の史跡に指定、1994平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。

 

五重塔
東寺10



金堂
金堂10

国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任に当たった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様大仏様天竺様)が併用され、挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩月光(がっこう)菩薩の両脇侍像が安置されている

木造薬師如来(重要文化財)
図1

像高は中尊(薬師如来)が288センチメートル、左脇侍(向かって右)の日光菩薩が290センチメートル、右脇侍(向かって左)の月光菩薩が289センチメートル。中尊が座す裳懸座の腰回りに12体の十二神将が立つ。三尊像は寄木造、漆箔仕上げ、玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む)。台座に付属する十二神将像は寄木造、彩色、玉眼。中尊の像内納入の木札、十二神将像の像内銘や納入品、及び、東寺長者を務めた義演の日記である『義演准后日記』の記載などから、この三尊像は慶応7年から同9年(1602 - 1604年)にかけて、七条大仏師康正康理康猶康英らとともに制作したことがわかる。中尊の台座を蓮華座でなく裳懸座とする点、中尊が左手に薬壺(やくこ)を持たない点などは古い要素で、本像が平安時代前期の当初像の形制にならって制作されたことを窺わせる(薬師如来の像は、左手に薬壺を捧持する形が一般的)

薬師如来を十二神将が守っているケースは他にもありますが(奈良・新薬師寺など)、台座の部分に配置されているのは珍しいのではないかと思います。

講堂

講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する
図2

講堂の須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。 
曼荼羅
立体曼荼羅配置図



12東寺


東寺1


東寺にて

東寺にて2


昼食はイオンモールで。 庶民の食事?貴族の食事?





午後の探訪は京都アスニーから始まりました。

京都アスニー 

造酒司(みきのつかさ)

京都アスニー前のほぼ四角形で囲まれた線と黒丸は、平安宮造酒司(みきのつかさ)倉庫の柱穴の遺構を示しています。
造酒司

造酒司は内裏に納める酒・醴(あまざけ)・酢などを醸造しており、ここは醸造用の米を保管する高床式倉庫の遺構です。


瓦1

造酒司倉庫跡から出土したという軒丸瓦の文様のタイルが埋め込まれています。
瓦2

図書館の外壁の下のほうを見ると、同じく軒平瓦の文様のタイルが埋め込まれています



豊楽院の正殿
殿


1000/1平安京復元模型図

模型

大極殿遺阯碑

平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には天皇の住まいである内裏が設けられた。 
大極殿跡5

探訪日和に恵まれ日本の京探訪科の最後の探訪が終わりました。

植田先生の熱意溢れる、ユーモアたっぷりの講義も、最後でした。コロナのせいで短い期間でしたが、体調を崩されながらも、私達のために、楽しい授業ありがとうございました。

心よりお礼申し上げます。そして感謝申し上げます。




 夜は有志による会食を楽しみました~♪♪♪

京都料亭竹茂楼(創業300年)老舗料亭美濃吉竹茂楼は享保の時代に佐竹十郎兵衛が美濃の国からの京へ上り、三条大橋のたもとに茶屋を開いたのが始まりです。店内に一歩踏み込むと、竹林の醸し出す清々しい空気と竹擦れの音に、思わず心洗われるようでした。
竹亭

げいこさん

芸子さん

日常生活からかけ離れた空間、空気。そしてきれいな舞妓さん、芸子さん。そして美味しいお料理、そんなひと時を堪能させていただきました。

可愛い、きれいな舞妓さんや芸子さんにお酌して頂き、お話している男性の皆様の顔はなんと嬉しそうで、幸せそうな最高に良い顔でした。

ありがとうございました。