3月5日(金)
 担当:1班 久保田さん

小雨の降る中 難波宮跡と大阪歴史博物館に見学に行きました

難波の宮
大極殿跡に上って


難波宮跡 
飛鳥~奈良時代にかけて、大阪が日本の都であったことを示す前後期の宮殿の跡

大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。発掘調査により前後2時期の難波宮跡宮殿が確認された。史跡は2種類の方法で示されていて
地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが726年から造営された後期難波宮である。一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し
ているものが「大化の改新」による難波遷都の後650年から造営が始められた難波長柄豊碕宮(前期難波宮)となっている。また、公園の中央北寄りには、
天皇が国家の公式行事を行う際に使用したとされる大極殿(今は藤棚になっている)も復元されている。


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基壇のある後期難波宮跡
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大極殿跡  

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法円坂遺跡倉庫構造模型


大阪歴史博物館  

○奈良時代の後期難波宮の大極殿が復元されていました。直径70㎝ある朱塗りの円柱が立ち並び、官人たちが整列しています。大極殿の大きさを実感することができました。
女の人は「さしば」とよばれる先端の長い扇を持っています。高貴な方のお姿を隠すためのものです。
男女とも靴の先端が上向きに反っており装束の裾を中に入れています。

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復元された大極殿  

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「さしば」を持つ女の人
 

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侍従の写真

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後期難波宮のし尾の復元模型 

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瓦屋根の復元模型

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後期難波宮復元模型

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空から見た難波宮 

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飛鳥・奈良時代の畿内


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難波と地形の変遷の写真 

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出土した軒丸瓦


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「東大寺大仏殿」という文字を配した軒丸


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奈良三彩小壺


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難波京出土の奈良時代銭貨

大阪市の市章 
澪標(みおつくし)というのは、古歌にもよまれているように、昔、難波江の浅瀬に建てられた水路の標識です。
大阪の繁栄は昔から水運と出船入船に負うところが多く、人々に親しまれ、港にもゆかりの深い澪標が、明治27年大阪市の市章となりました。
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澪標(みおつくし)の標識がたてられている

堂島米市
米相場師たちにとっては、大阪堂島の米市場の相場の上がり下がりを、いち早く知ることが、とても重要であった。大和の相場師が旗振り通信というものを伝えた。
この方法は、あっという間に相場師たちの間に広まった。旗振り通信の中継点だったと今も伝えられている場所は数多い。岡山まで伝えたといわれている。
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旗を振って米の相場を伝えている 

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蔵屋敷

天満青物市
大阪近郊の農村で栽培された野菜や果物を毎朝仲買や小売人に売りさばく卸売市場である。
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八軒家着船場
中世以来、京都ー大阪を結ぶ淀川交通の起点で、旅人や運送に携わる人々で賑わった。
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住吉長堀銅吹所復元模型


難波宮遺跡探訪
今からおよそ1350年ほど前の飛鳥時代、この博物館が建つ敷地には難波長柄豊碕宮という宮殿が置かれていました。発掘調査ではたくさんの倉庫群や
それらを区画する塀跡、巨石を用いた水利施設などが見つかっています。そのほとんどは再び埋め戻して保存するとともに、一部は掘り出したままの状態で
地下に保存されており見学できます。
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地下の遺跡


午後の授業では、
植田先生の貴重なコレクションを
見せていただきました。

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1300年前の須恵器


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東大寺の軒丸瓦


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2300年前の白銅鏡


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海獣葡萄鏡





植田先生 
詳しい説明をしていただきどうもありがとうございました。
思い出の残る楽しい見学となりました。