日本の京(みやこ)探訪科

2021/02/19

担当4班 担当:彦坂さん

平城京探訪2(外京)

真冬のような午前中と、暖かい午後、そんな一日でしたが、
コロナ感染に充分気を付けて探訪に望みました。

 

 平城宮から南に朱雀大路がのび、その東側が左京、西側が右京とされ、さらに東の部分、ここに外京が増設されていたと推定されています。 で、なぜ外京があるのか?いくつか想像することは可能なのですが、まず、外京って、もとは何だったのか?ということで、地図上で見ると、とってつけたように存在する外京。

平城京のきれいな四角形を大きく崩す存在のように見えます。

 

この場所は、本来は藤原不比等の邸宅であったと言われています。天智天皇の隠し子だった藤原不比等が天智天皇を此処で祭るために陣取った所。以来、この東の京が藤原氏の根拠地となり 此の為、藤原氏の氏神を春日大社として置いて、更に氏寺として興福寺を置きました。

彼の娘が文武夫人となり、更に彼女の娘が聖武天皇の光明皇后となり、東の京に法華寺を建てた。

法華寺は、もともと藤原不比等の邸宅跡ですから、平城京の中でも超一等地でした。 それを相続していた光明皇后(不比等の三女)が寄進し、そのため「宮寺」と呼ばれていました。

 不比等以降の藤原氏について、極端に権威が低下する時期(藤原四子の相次ぐ死去)もあるのですが、まぁ、後に摂関をはじめ朝堂の要職を独占する藤原氏の端緒に不比等が位置することに異論はないかと思います。 このように、朝堂支配の土台を築く藤原不比等。彼の強い影響力を誇示するために、自身の邸宅の跡地、また藤原氏との結びつきが強い光明皇后ゆかりの法華寺、そして藤原氏の氏寺である興福寺をふくむ、いわば藤原氏のホームグラウンドとも目される場所とし、外京として京域に含んでいった。 こうすることにより、藤原氏の権勢は、さらに内外に喧伝される事となった。

天皇を凌ぐほどの力を持っていた藤原氏ゆかりのところだったから、平城京が廃れても外京は廃れなかった。桓武天皇も外京までは滅ぼさなかった。

 

 


 興福寺については委員長の三国さんの説明を聞きました。
五重塔の前

三国さんありがとうございました。

興福寺

興福寺は、京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身となります。飛鳥を経て、和銅3(710)

平城遷都に伴い藤原不比等によって現在地に移転されました。その際に興福寺と名付けられ、以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄、奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めました。

古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。


五重塔


五重塔

興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730)に創建された。

現存の塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い塔です。

興福寺五重塔は明治神仏分離令により売却され、青銅製相輪を回収するため塔を燃やそうとしたが、近隣住民の猛反対で断念。五重塔の塔は生き残り国宝に指定されました。



阿修羅像2

阿修羅像(国宝)

阿修羅像は天平6年(734)、光明皇后が母橘三千代(たちばなのみちよ)の1周忌供養の菩提を弔うために、造像された、興福寺に収蔵されている守護神八部衆立像の一つである。

3つの顔、6本の腕を持ち三面六臂(さんめんろっぴ)と表現されている。

その容姿からは神秘的な魅力と気品を感じ取ることができる。

図1

伽藍2

伽藍3

伽藍

これらの堂宇は創建以来、火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。

明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。



元興寺

元興寺

元興寺は、南都7大寺の一つ

蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である。

 

飛鳥寺は平城京への遷都にともない、現在の地に移されましたが、その寺域は南北約440メートル東西約220メートルで、興福寺や東大寺に匹敵する巨大寺院でした。

飛鳥寺(法興寺)→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えて行きました。

 


天平の甍

 天平の甍2

禅室、極楽堂の屋根

禅室南面と極楽堂西面の屋根には、元興寺の源流に当たる法興寺創建当初の軒平瓦がいまなお使われています。つまり、蘇我馬子や聖徳太子が活躍した飛鳥時代の瓦が現役で禅室や極楽堂の屋根を飾っているのです。その独特の並べ方は一般に「行基葺」(ぎょうきぶき)と呼ばれていますが、1400年前の瓦が破損もせずにいまも使われている。

石仏
   石仏・五輪塔


ランチ

午前中の探訪が終わってさぁ昼食です。

奈良の野菜を使ったオシャレな昼食でした。お腹は満たされたでしょうか。


風景1

奈良市役所展望台からの全貌

展望室からの眺めは、奈良市内では唯一と言える、360度のパノラマが広がります。近くには奈良公園や若草山、春日山、高円山を一望し、西には生駒山や奈良市街地、南には金剛山や眺めの良い日には大峰山脈を一望

 

東大寺

東大寺(とうだいじ)は、華厳宗大本山の寺院。 金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である

12年(7402月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。

盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。聖武天皇は、人々が思いやりの心でつながり、こども達の命が次世代に輝くことを真剣に考えられ、動物も植物も共に栄えることを願い、さらには造像にあたっては、広く国民に「一枝の草、ひとつかみの土」の助援をよびかけられた。つまり、大仏の造立は皇室や政府の事業のみならず、国民に結縁を求め、助力によって完成しようとした点に、従来の官大寺建立とは明らかに異なるものがある。いわゆる大衆を知識(協力者)として造立を果たそうとしたもので、この精神は各時代の再興や修理にあたって、現代に至るまで常に相承されてきている。

南大門

 南大門

図2

大仏殿にふさわしく、わが国最大の山門。阿形吽形の金剛力士立像が安置されています。


かっこよく見せるために、乳首の位置を上部に付け替えたそうです。

東大寺の境内には、
創建以来祭祀された神社が現在12社あります。


社3

社2

手向け山八幡宮

手向山の山麓にあり天平勝宝元年(749)東大寺大仏建立のため、九州豊前国(大分県)宇佐八幡宮より東大寺守譲の神としてむかえ、まつられました。

宝庫(重要文化財)は東大寺から移築された校倉造の建築物。社宝に唐鞍(国宝) 舞楽面(重要文化財)などがある。明治の神仏分離によって東大寺から独立し、御神体だった快慶作の「僧形八幡神坐像」(国宝)は、東大寺の勧進所八幡殿に安置されている。
大祭
    大分県宇佐八幡宮の神仏習合の儀式
    この神を分祀して手向山八幡宮が成立しました。



お水取り
 

2月堂

旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある

 

二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」(じょういん)と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。

修二会正式名称は「十一面悔過」という。十一面悔過とは我々が日常に犯した様々な過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味する。

修二会が創始された古代では、天災や疫病を取り除き、鎮護国家、天下泰安、五穀豊穣など人々の幸福を願う行事とされている。


お松明かり

お松明り
松明かりの前



礎石奈良時代の
   東大寺のできた当時の礎石の高さ

  今から比べると随分低い所




図礎石に乗っていない
 
礎石に乗って

礎石に乗って2
 東大寺講堂跡礎石に乗る受講生の皆さん


瓦

瓦(東)大寺

鎌倉時代の瓦

下向き教の方達は沢山の瓦を採拾されました。


ご神田2

神様・仏様の御神田


図3

先生、学びと共に心も満たされる一日をありがとうございました。

感謝申し上げます。